「唐津の神様」と言われた男がいる。 西岡小十(にしおか こじゅう)。
実に魅力的な唐津焼を数々作り上げた。 しかしこの小十という男には何の受賞歴もなく、無冠なのである。 生まれは佐賀県の唐津市ではあるが、窯元の生まれではない。ましてや誰に師事をしたわけでもないのだ。
もはや天才としか言えない。 36歳頃無職だった小十は、生活のために古窯跡に行っては陶片を拾い集めて売っていた。良いものは高く売れる、ダメなものは売れない。これが生活のためであるから自ずと必死になる。必然的に目が肥えていった。 強いて言えば、この経験が陶芸家としての力を付けさせた。 古くは本阿弥光悦も然り、北大路魯山人、川喜田半泥子、中村六郎、細川護熙、安倍安人などは、本業を別に持っていたり、作陶を始める前はサラリーマンであったりと、窯元の生まれではないのだ。しかしながら彼らは魅力を感じる作陶をするのだ。とてつもないパワーをそこに感じる。 彼らの目標は「陶芸家になって食えるようになる事」ではないのだと感じる。 自らの表現の場としての陶芸であり、自らの理想を追い求めている為に、一切の妥協を感じない。 東洋陶磁器研究の第一人者である小山冨士夫にして「唐津焼の事なら知らないことはない。唐津の神様。」と言わしめ、志野焼の重要無形文化財である荒川豊蔵は、「西岡には何も言うことがない。」と言い高く評価している。 これほどまでに高い評価がありながら何故無冠であるのか疑問に思うところだが、この男は組合や協会などの会派には一切属せず、一匹狼を貫いた。このため、一切の賞を受ける事がなかったのだ。 一時、次の唐津焼の重要無形文化財は西岡小十を置いて他には居ないと噂されたが、ついに指定される事はなかった。おそらく指名された所で、彼の場合は辞退していたと推測される。そう考えると、もしかしたら打診はあったのかもしれない。 さて西岡小十の作るぐい呑は、非常に使い勝手が良い。 本編の「良きぐい呑」の条件とは何か?の項目で話した条件を、全てにおいて高次元で満たしている。 私が陶器を見るときの評価判断基準は、造形、土、焼け(釉薬)の順番で、実は造形力を1番にしている。 造形力と言うと彫刻的な造形と勘違いされる方が多いが、造形力のある作家は何でもない形が凛とした雰囲気を醸し出す。表現力のある俳優は、立ち姿や後ろ姿だけでも表現できることに似ている。決して見た目の派手さを求めているわけではなく、使用感の良さ、用の美が大切だと思っているのだ。 小十の造形には、これがある。
そして、小十自ら作陶を始めたのが、54歳という高齢なのも驚きである。 作陶に必要なものは、小手先のテクニックを磨く事ではなく、審美眼を養う事だと思っている私の考えを見事に体現している。 まさに「中年の星」的存在であり、ちっぽけな私自身も勝手に背中を押されているように感じるのである。
今日は、西岡小十という「唐津の神様」の絵唐津を手中に「俺にもまだできる」とつぶやき、この小さな器から勇気を分けてもらいながら一杯呑みたいと思う。
それでは
あなたの楽しい「マイぐい呑ライフ」に乾杯。
西岡小十略歴 1917年 佐賀県唐津市に生まれる。 1937年 20歳 関西大学に入学。 1940年 23歳 日本生命大阪本社勤務。 久留米第十二師団入隊。 1953年 36歳 生活のために古窯跡の発掘を始める。 1960年 43歳 小山冨士夫と出会う。 1971年 54歳 小山富士夫の指導のもとで割竹式登窯を開窯、「小次郎窯」と命名。 1974年 57歳 初個展及び古唐津陶片展を開催。 1975年 58歳 荒川豊蔵来窯。藤原啓来窯。 1981年 64歳 絵斑唐津を焼成復元に成功。荒川豊蔵命名による「小十窯」開窯。 1983年 66歳 梅花皮(かいらぎ)唐津の復元成功。 1989年 72歳 古希記念「西岡小十作品集」出版発行。 1993年 76歳 東京、名古屋、大阪にて喜寿記念展開催。 1998年 81歳 石川県辰之口町に加賀唐津「辰之口窯」開窯。 2003年 86歳 日本橋三越にて「西岡小十と八人(今藤長十郎・加藤淡斎・小杉小二郎・小松原まさし・橘宗義・西山松之助・細川護熙・薮内紹智)展」開催。 2005年 88歳 富山県氷見にて米寿記念「西岡小十茶陶展」開催。 2006年8月30日 89歳 逝去。