三井記念美術館で開催された ユネスコ無形文化遺産登録記念「北大路魯山人の美 和食の天才」に出かけた。 実に有意義であった。
今回は、このあまりに有名な「あまいは美味い」の北大路魯山人について話してみたい。 私の美意識の中で、魯山人は異次元であり、この男こそ「唯一の天才」と言いたい。 美食家だとか陶芸家だとか言われるが、今言われている美食家や陶芸家とは性質が違うと感じている。 魯山人の本業は、書家であり篆刻家である。 そんな男が、食の世界で、一流の食通達を驚かせ絶賛させ、陶芸の世界でも、辞退してしまうが1度は人間国宝に選定されることになるのである。
この異次元の天才はどうやって出来上がったのか。このポイントは、魯山人のとてつもない探究心と行動力にあると思われる。
魯山人は、幼少期に竹内栖鳳の日本画に憧れ日本画家を目指すが、画材を買うことができず、それではと画材代や小遣いを稼ぐために新聞の懸賞習字「一文字書き」に独学で応募し懸賞金を得る。 これで元手を作り20歳前後に上京し、当時、書道の大家と言われた日下部鳴鶴や、巌谷一六に弟子入りしようと門を叩くが、「隷書は、楷書を覚えてから」と言われ師事せず、独学で学び「千文字」を隷書で展示会に出品し「一等二席」を受け、それだけではなく、当時の宮内大臣が買い上げるという快挙を成し遂げる。 その後、岡本可亭(岡本太郎の祖父)に師事し、24歳で独立し書道教室を開きながら、版下書きの仕事をする。 27歳から書と篆刻を極めるために朝鮮や、満州、中国各地を回る。 30歳頃、憧れの竹内栖鳳や、横山大観などの落款印を作成する。 この頃、内貴清兵衛と出会い古美術収集や美食に影響を受ける。 その後、細野燕台に居候し、染付や赤絵などの陶芸を学ぶ。 33歳で神田に「古美術鑑定所」を立ち上げる。 この頃、中村竹四郎と出会い、36歳で竹四郎と共に京橋に「大雅堂美術店」を創業する。その後、古美術品を売るために商品に料理を盛ってもてなす。 この料理が評判になり、38歳の頃、大雅堂の2階で会員制の「美食倶楽部」を始める。 40歳の頃に関東大震災の影響をうけ大雅堂が壊滅的被害に遭い焼失。しかし、芝公園内の「花の茶屋」にて美食倶楽部を再開。関東大震災の教訓をもとに美食倶楽部で使う器を骨董から、自ら製作する方向にチェンジさせ、製作を任せた東山窯にて当時工場長であった荒川豊蔵と出会う。 そして、42歳であの伝説的料亭である「星岡茶寮」を開店させるのである。
この辺りからは、皆さんの知る魯山人になっていく、まるで「わらしべ長者」のように、その時必要な物が丁度いいタイミングで登場しているようにも感じるが、この時点までに異常なまでの探究心と行動力が見える。 オープンキッチンに白い割烹着、料理は「温かいものは温かいうちに、冷たいものは冷たいうちに提供する。」 今では、ごく当たり前のように思えるが、当時の料理屋にはなかったことで、これらは全て魯山人が考案し始めたものである。
食材の旬は外さず季節感を大切にし、食材の持ち味を活かす事を考え、また、お客一人一人の好みを把握し、その好みに合わせたアレンジをしていたと聞く。
「俺の料理を食え」という姿勢では決してなく、謙虚で細やかな「おもてなし」を重視したのだ。美食家で傲慢であったとされる魯山人のイメージとは程遠い。 純粋に美食とは何かを探究した結果の答えがそこにあり、 「暑い日に外回りしていた人には、何よりも一杯の冷たい水が美味い」とか「採って数日経ってしまった大根を料理人が、あれやこれや調理するより、今朝、畑から大根を採ってきて「大根おろし」にして醤油でもたらし、その日の朝食で食べた方が美味い」など常識にとらわれない自由な発想があった。これは侘茶の精神に酷似しており、大げさに言えば、魯山人は近代日本における料理界の千利休とも言えるのではないかと思うのである。 これにより、料理人の地位を押し上げることになり、今では、料理人の地位は決して低いものではなくなっている。
陶芸では、土を活かすことを優先し、小手先のテクニックを使うわけでもなく、美の本質とは何んであるかを追求した。その影響力は強く、荒川豊蔵を始め、川喜田半泥子、金重陶陽、藤原啓、藤原雄、山本陶秀など、名だたる陶芸家が影響を受けている。
本当に良いものとは何か、美しいとは何かを考えているように思える。世の中で評価されているものが必ずしも本当に美しいものとは限らないとした。
魯山人は、長次郎より本阿弥光悦、光悦よりも尾形乾山といった独自の価値観を持っているが、これはどちらがより芸術的であるか?という判断基準で、どちらが歴史的価値があり高価であるという価値基準ではない。
まだまだ逸話やら盛りだくさんで、飽きない男だ。魯山人を語りだすと止まらなくなる悪い癖が出てしまったようだ。 では、マイぐい呑のススメとして何を言いたいのかといえば、この「探究心と行動」が大切であるという話をしたい。 魯山人を見ていると、自ら行動し体験することによって、知識や技術、審美眼を磨いたのだと感じるのである。 私が、今回の展示会に足を運んだのは、「轆轤は引かずとも、陶工が轆轤引きした皿を、魯山人が指先でひと捻りしただけで、それはもう魯山人の作品になってしまう」と言わしめた、魯山人の美意識に少しでもあやかり、これからも良き器と出会うためのヒントを得る研究なのである。 「目を養うには本物(良いもの)しか見ないこと」の実践である。
また、全てのことに対してもそうであるが、行動して体験することによって、初めて得るものが非常に多く、この体験ほど確かで正しい答えはないのだ。 私自身、「なぜぐい呑を持ち歩くのか?」と問われることも多いが「楽しいので、ぜひやってみてください」としか答えようがない。 ぐい呑選びにおいても、最後は使ってみないと良いか悪いかなぞ解らない。これが難しくもあり楽しくもあるのだ。 「百聞は一見に如かず」であり「百見は一触に如かず」なのだ。ぜひ、あなたも行動し体験していただきたいと、切に願うのである。 それでは、あなたの「マイぐい呑ライフ」に乾杯!